3Dの推しを持つこと、2Dの推しを持つこと。
みなさんこんにちは、62と申します。
最近始めたばかりの趣味ブログで、覚束ないところが多々ある私ではありますが、今日は趣味とは少し違う真面目なことを書きたいと思います。
(時間なくてミニチュアできませんでした〜)
3D推しを持つという苦しみ
私は長らく2Dの推しを追いかける二次オタでございます。
とはいえ若き頃、まあ今も若くはありますが、もっと若いまだ脳みそが中坊やそこらだった頃には私も3D推したるものが存在しました。
ですが今考えると、どうして3D推しを持つことができたのか、現実の推しを推せる精神であったのか疑問に思います。
それについて、考えてみたので書いていきますね。
まず1つ目にあげられることは、私がまだ純粋無垢な少女であったから、という点です。
今現実に存在する方を推しに置けないのは、きっと
「この人に認知されたい」という願望が、逆に自身を傷つける、
つまり私が「どこからどうみても叶わぬ願望を心の中に起き続ける」ことができない弱い人間だということ、だと……
かつて純粋無垢であった私は夢見がちに
「もしかしたらこの人とどこかで出会えるかもしれない、もしかしたら」を本気で信じ、
可能性を信じて疑わない世間知らずでした。
そのあと私は「憧れの人に出会うことは無理なんだ」ということを、鏡の前の自分の顔面を見たり、成績表を見たり、親や兄弟友人に言われたりすることによって気づきます。
そしてその「気づき」は私にとって恐怖でした。
跡形もなく消え去った、純粋無垢で無知な人間の夢は、「自分への不満」にすり替わり、現実の者と関わることへの恐怖さえ感じたほどでした。
「気づき」はまるで「お前なんかが高望みするな」と言われているような、「お前なんかが無理に決まっている」という暴言にすら聞こえる代物でした。
私はその気づきに耐え、努力できるほど、自信も力も希望もありませんでした。
ただ辛いだけだった。
それ以来周りからの怒号(に似た私への言葉)に怯えた結果、3Dの推しを持たないようになったのだと、自己分析します。
では2D推しの利点は?
まず、「推しを公表しない手立て」が存在することです。棲み分けができる。
作品がマイナーであればあるほど、仲間は少ないが逆に推しを批評する輩もいない。
そして現実に存在しないことは、「私がどう良くなろうと会えないのだから、私が悪いわけではない」という証明になるんです。
どう自分を改善しようと推しには会えない。だから素の自分のままでも許されるんだという安心感がある。
しかも「自由に推しと交流できる、他人の目を気にせず」場である二次創作があり、それは一般的には表面下で行われているので、マナー違反をしたり公にわざと曝け出したりしなければ受け入れられるんです。
優しい世界だと思いました。
3D推しを持っていた時叶わなかった、「推しとこうしたいああしたい、推しはこうであるはずだ」という主張も、不安恐怖少なく表現できるんです。
(ある程度検索除けや独自の呼称を用いる必要がありますが)
加えて私は創作や自分で作ることが好きだったので、2次元の推しを持つということにのめり込んだんだと思います。
3Dの推しを持てている方、私は尊敬します。
強いと思います。
周囲から認められるほど容姿や知識が優れた人間なのでしょう。
私は私なりに、ひっそりと存在のない推しを追いかけるだけであります。
身の丈にあった生活というのはこういうことでしょう。
ではまた明日〜!!